2011年度 カリキュラム@デジタルハリウッド大学院 2011年度 カリキュラム@デジタルハリウッド大学院

日本文化とデザイン論1

日付
2011年10月27日 18:30~
場所
桑沢デザイン研究所
概要
デザインとは何か
受講生の感想

記:水野 可奈子

第39回 記 : 水野可奈子

待ちに待った内田先生の講義。またもや少し遅れて到着し最前列を逃したが、かろうじてアリーナ?に席を置くことができた。
この日の講義の概要は以下のとおり。丁寧なレジュメが配られ、とてもありがたい。

はじめに デザインとは[すべてを人間に向けて、人間を軸に置く]ものをいう。
第一章 デザインとは何か……人間のためのデザイン
1. デザインと文化人類学
2. デザインと時間
3. 時間と空間
4. 人間・社会・自然を取り巻くデザイン

第二章 デザインと今日社会
1. 近代デザインの欠落
2. デザインのローカリティー
3. 近代社会のデザイン(モノ)の構図
4. これからのデザイン(モノ)のありかた
5. [モノの論理]と[関係の論理]
ーーーー
この後にも項目は続くが、この日は二章まで。三章からは次回へと続く。

今回の講義で私が気になった箇所を順に記していきたい。

はじめに デザインとは[すべてを人間に向けて、人間を軸に置く]ものをいう。
第一章 デザインとは何か……人間のためのデザイン

・デザインが人々を幸せにしてるとは、今はまだ言い切れないと思う
1968年を境に、工業化社会と情報化社会を定義して考えると、そんなに昔から人間中心のデザインという考え方がされて来たのかと少し驚いた。ここ最近WEBのインターフェースデザインを議論する際によく用いられるヒューマンセントリックデザインという言葉と同義語に聴こえるが、私の感覚では、近代社会がそのような人間中心にデザインされた社会にはとても思えなかったからである。むしろ、消費に明け暮れ、人間中心どころか、モノ中心。「デザイナーは人々の物欲を掻き立て、企業の手下となり、環境破壊を推し進める事に少なからず手を貸してきてしまった」という美大でお世話になった教授の言葉が強く思い出され、真の意味でデザインが人間を幸せにしてきたとは言い切れない気がするからだ。

内田先生の講義内容も、40年経った今、社会が人間のためになったどころか、ますます事態は悪化していると捉えている。デザインという行為の目的は人々の幸福のためであり、では人々の幸福とは何か、生きるとは何かを考える重要性から、文化人類学がデザインにとって重要であるというお話に続いていった。

・人間は昔から祈りつづけてきたのだ
人がさまざまな時間を生きているというお話には改めて納得した。
生きる時間、あそぶ時間、そして祈る時間。

私は生きる時間、つまり働いたり社会に参加したりする日常の時間と、余暇を楽しむ脱日常的なあそぶ時間、この両方を過ごしている実感はあるが、3つ目の祈る時間という、宗教や儀礼、すなわち節句や冠婚葬祭を通して自然や宇宙などの現象に関わる超日常的な時間を過ごす機会が少ない。無宗教ではあるが、祈るような想いと共に、人間の力を超えた宇宙や自然の力を感じる祭事が、本来人間生活に重要な意味を持っているのかもしれないと思えた。

・縄文人と私の記憶
今回の講義で最も感動した内容が、前文化的記憶についてだった。

人類が言葉を話す以前、すべての人類共通に刷り込まれた記憶。深層心理と呼ぶものなのか、例えば朝陽が登る感動、夕陽が沈む不安、私たちのDNAに刻まれた光景と感覚。先生のお話の中で、縄文人にとっての夜がどれだけ暗く深い闇だったか、そこで膝を折り曲げて仮死状態のように眠りにつき朝陽を待ち望んだ人々の感覚がどんなものだったか、想像を巡らせているうちに、その朝陽の美しさやみなぎるエネルギーに感謝感激しただろうイメージが浮かんできて、ちょっと涙が出そうになってしまった。その恐怖や感動の記憶が私たちに刻まれているのだとしたら、そういう、宗教や文化や人種や国境を超えた感覚の事を真実と呼ぶのではないだろうか。目で見える物ではない、本当の意味でのデザインを考える上で、とてもとてもキーとなるお話だったと思う。この件についてはまだ次回以降の講義でも続きがありそうで、実に楽しみだ。

・そういえば、山本益弘氏のお話にもつながる
日本の文化は観察の文化である。
自然の微細な変化を読み取り、美を発見する。儚く、虚ろいやすく、弱々しくも繊細な美。

そういえば、以前土曜特別講義で料理評論家の山本益弘氏が、日本料理について、食べる側が探しにいき、感じ取る美味しさと表現されていた事を思い出した。フレンチやイタリアンのように、料理の側から強く訴えてくる物ではなく、こちらがきちんと向き合い、掴む味。そんなような意味だったと思う。季節の変化を眼や耳や鼻や舌で、なんと感度高く感じ取ってきた人種だろうか。まさに観察の文化だ。

・何を見つけた?永遠を!
この世は常に変化して、変わらないものなど何一つ無い。
美しい、美しすぎる、、。はあ、、。この部分だけでかつての日本の風土や景色の美しさが感じられる。美意識というか、美学というか。

日本人には、全ての変化を寛容に受け止めるという美意識がそもそもあるという事を、ある書籍を読んで学んだ。例えば死生観。日本では切腹や自決という死に方が許容されてきた。なぜ、そんなに悲しい死に方が非難されずに昔からあるのか、納得がいかなかった私は、その本を読んで少し理解することができた。どのように生きて、どのように死ぬのかさえ、全てありのままを受け入れるという事なのかもしれない。もちろん、自ら命を断つという行為を肯定したくも美化したくもないが。

変化を受け入れることができるというのは、強さだと思う。やはり日本人は芯が強いのかもしれない。
そして、変化こそ永遠なのだという思想に感動してしまった。ランボーの永遠という詩も思い出した。


第二章 デザインと今日社会

・やっぱり我がチームDは正しかった!
モノ史上主義から脱却し、何のため、誰のため、どうやって作るのかを考えなければならない。モノの論理ではなく、関係の論理。モノを主題として捉えるのではなく、関係を主題にして捉える。主語であるモノを先に考えてしまうと、述語は第二義的になってしまうのだ。

この話で私は確信を持った。やはり前期グループワークで我がチームDが発表したタクシー課題へのアプローチは間違っていなかった!とにかく、始めから何より関係性にこだわっていたのだ。タクシーをどうするか、ではなく、タクシーによって人々がどうなるのか?どうなったら東京は良くなるのか?東京がどう良くなるために、タクシーはどう寄与することができるのか、だ。コクーン構想と名付けたが、人々がコミュニティを作りやすくするために、タクシーを用いたのだ。主語がタクシーで述語がコクーンという事だ。そうなると主語が必ずしもタクシーじゃなくてもいいということ。述語が第一義なので、主語が変項する。どういう関係性を作りたいのか、それによって主語は変わるのだ。

さらに、前期の紺野先生の講義で聴いた、コトの中にモノを組み込む、タタ自動車やideoの事例、エスノグラフィのお話も紐づいてくる。企業はどういうモノが売れるのか?を調査するのではなく、どういう関係性を作ることできるか?を探る時代だ。

まるでパズルのピースがパチパチとはまっていくように、それぞれの講義や、書籍で得た気づきがつながって1つの像が描かれていく快感。STRAMDに来てから脳年齢が若返ってるんじゃないだろうか?!

内田先生の言葉は、1つ1つがシンプルで、無駄やごまかしが一切なく、研ぎ澄まされている。
同じ言葉を私のような若輩者が使ったら、力不足で届かないだろう。
ところが先生の言葉は、心の奥の方を目がけて飛んでくるような届き方をする。真剣さが尋常じゃない。
講義というより、神聖な、言霊を感じ取る時間、そんな気さえした。

それにしてもSTRAMDの先生方は、魂のこもった自論を持っていらっしゃるなあ、、。

《STRAMD》

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